スワンプマンは本物なのか?
スワンプマン(沼男)と呼ばれる思考実験がある。
それはこのようなものである。
ハイキングに出かけたある男が、途中で運悪く雷に打たれて死んでしまう。
その時、もうひとつ別の雷が、すぐそばの沼へと落ちた。
この落雷は沼の汚泥と化学反応を引き起こし、なんと死んだ男と全く同一の生成物を生み出してしまう。
この落雷によって生まれたスワンプマンは原子レベルで死ぬ直前の男と全く同一の構造を呈しており、見かけも全く同一である。
なので脳の状態も完全なるコピーであることから、記憶も知識も全く同一であるように見える。(後述)
沼を後にしたスワンプマンは、死ぬ直前の男の姿でスタスタと家に帰っていく。
そして死んだ男が住んでいた部屋のドアを開け、死んだ男の家族に電話をし、死んだ男が読んでいた本の続きを読みふけりながら、眠りにつく。
そして翌朝、死んだ男が通っていた職場へと出勤していく。
そんな事が本当にありえるのかという事は置いておいて、果たしてスワンプマンは死んだ男と同一人物なのか?
偶然生まれたソックリさんであって本物じゃないと簡単に言えそうだが、しかしこの問題はかなり難解である。
例えば生物の新陳代謝。
その人を形作っている"物"が"その人"だと定めれば、今のあなたは昔のあなたのコピーであってオリジナルではないとなる。
その考えを支持したい人も中にはいるだろうが、しかし一般的にはそうではないという意見が多いだろう。
なので単純にスワンプマンを物質の違いでその男ではないと考えると、先ほどの考えを支持しなければ矛盾が起きる。
だが代謝と沼男には大きな違いがいくつかある。
それを挙げながらこの問題を考えてみる。
1.沼男の場合は全ての物質が"一気に"入れ替わったが、代謝の場合は"徐々に"入れ替わっている
スワンプマンと似た話でテセウスの船(Wikipedia)というパラドックスがある。
船の補修をどこか破損する度に行っていくと、元々使われていた材料はいずれその船から無くなってしまう。
それでもその船はオリジナルの船と言えるのだろうか?
もし違うのであれば、どの時点から違う船になったと言えるのか?(先ほどの代謝による変化で別人になるという考えはこれが大きな問題になる)
このような問いに正しい答えは存在しないと思うが、しかし人間の場合であればDNAという"設計図"を元に代謝は行われている。
なのでテセウスの船の場合も設計図通りに修復が行われていれば、オリジナルと言えずとも"その船"とは言えるかもしれない。
設計図だけじゃなく修理を行う職人もオリジナルを作った時と同じであればより説得力は増すだろう。(その辺の感覚は個人個人に委ねられる)
代謝の場合も「5歳の時の自分」と「今の自分」は違うが、しかし"他人"という意味で違うわけじゃない(4次元的な意味で同じ)という感じで考えられる。
では今のを踏まえて次に進んでみる。
2.そこに行き着くまでの"過程"は重要なのか?
人の代謝もテセウスの船も入れ替わる過程には偶然ではない"流れ"が存在している。
人の場合はDNAに基づいたもの、テセウスの船だと設計図や職人。
だがスワンプマンの場合は、偶然によって誕生しているのでその中間の過程が存在していない。
ここでスワンプマン(Wikipedia)に載っているこの思考実験を考えたドナルド・デイヴィッドソンの考えを紹介。
「本人の経験や経緯に基づいて得られたものこそが知識であり、スワンプマン自身がそのような経験を経ていない以上、それは知識のように見えても知識とは別の種類のものである」
つまりもし本物かどうかという問題で"流れ"を重要視する場合、スワンプマンは偽物ということになる。
先ほど沼男の場合"一気に"入れ替わったと言ったが、実際は入れ替わったわけじゃなく別の場所にあった物質がスワンプマンと同じ形に"偶然"形成されただけである。
ということはそこに"意図"がなくたまたま生まれたスワンプマンはその基準で考えると偽物ということになる。
だが確かにスワンプマンは流れが無く存在しているが、それでもオリジナルと全く同じ状態であるのは無視できない。
そういう意味ではテセウスの船よりもオリジナルと言える。
代謝ですらその過程でコピーミスがあったりするが、スワンプマンはそれすら一切存在していない。
ではここで話を分かりやすくする為に宇宙は"情報"で構成されているという仮説が正しい前提で話を進めていく。
1は1であって1じゃない1はないように、情報自体にも個性はないと考えることができる。
つまり情報で構成されていると考えると、スワンプマンはオリジナルと何も変わらない。
しかしスワンプマンが"その人"である事には"条件"が存在すると考える。
それはオリジナルと存在する期間が被っていないこと。
もしその男が死ぬ直前の一秒前に誕生していたら、僅か1秒間だがその男とスワンプマンが同時に存在していたことになる。
だがそれでは互いの1秒間の"記憶"が別々になるので、それでは(私の考える)同一人物の基準には当てはまらない。
この話は量子力学の量子テレポーテーション(後述)だけではなく多世界解釈とも密接に繋がりがある。
「エヴェレットの多世界解釈」の利点と問題点の中で記憶(経験)が完全に一致していない限り「別次元にいる別の人生を歩んでいる自分」は自分そっくりなだけの別人だと言った。
つまりほんの僅かでも同一の時間軸を共有した場合、スワンプマンは限りなくその男に近いソックリさんだと思うべきかもしれない。
別次元にいるその男に近い存在だろう。(要するにドッペルゲンガー)
逆に言うと時間軸を共有していないのであれば、スワンプマンはその男が別の場所へ瞬間移動した姿と考えられる。
更に"発生"がその男が死んだ直後ではなく1年後の場合であれば、その男がタイムスリップした姿と考えられる。
これにて一件落着したかのように思えるが、しかし今の考えには大きな問題がある。
もし、死んだその男が途中で生き返ったらどうなるのか?
たとえば3日後にその男が奇跡的に蘇った場合、"その男が別の場所へ瞬間移動した姿"とされるスワンプマンと時間軸を復活直後から共有してしまう。
この時点で両者とも別々の記憶を持っているので、どちらもオリジナルだと定めることはできない。
いやどちらもオリジナルだと考えられなくはない。ある時点からオリジナルは"その男"と"スワンプマン"に分岐したと多世界解釈的な感じで考えようと思えば考えられる。
もしくはむしろ、どちらもオリジナルでないと考えても良いかもしれない。
"オリジナル"と定めた状態は死ぬ直前のその男である。
両者ともその時から記憶が増えている(変化している)ので先ほどの4次元的な考えのように"その時の人"は"その時にしかいない"と考えることができる。
しかし片方だけをどうしてもオリジナルだと選ばなくてはならないのであれば、どっちを取るかである。
"偶然"によって発生したがその男よりも記憶(経験)を多く持っているスワンプマンか、
それとも"人生の空白期間"が存在するが、しかし偶然ではない"流れの続き"として復活したその男か。
おそらく多数の人は復活した男こそがオリジナルだと考えるだろうが、しかし両者の立場(視点)で考えると話はややこしくなる。
スワンプマンの場合、たとえ偽物の記憶(?)でも途中までハイキングに出かけていた。
そして突然何かが起き、別の場所へワープしていたと気づく。
その後スタスタと家に帰る。
その男の場合も途中までハイキングに出かけていた。
ここまでは経験上スワンプマンと全く同じである。
スワンプマンの方が同じと言うべきかもしれないが、しかしどちらも現在から見た"過去"(記憶)に違いは存在しない。
なので先ほど紹介した「それは知識のように見えても知識とは別の種類のものである」という意見は、そのように単純に考えれないのではないか。
なぜなら記憶(経験)というのは"現在"にしか存在しないものであるから。
ということはスワンプマンが持つ"記憶そのもの"は偽物ではないと言える。
つまりどのような経緯で行き着こうとそれが知識であるのは変わらないと思うわけである。
話を戻して、そして突然何かが起き、気付いたら少し火傷をしており倒れていた。
その後スタスタと家に帰る。
そしてスワンプマンと鉢合わせして大変なことになるが、それは置いておこう。
両者ともオリジナルの自覚があるので両者とも自分が本物だと言い張るだろう。
記憶も同じであるので周りも判断できない。
だが大きな違いが一つある。
それはスワンプマンの場合、物理法則に反した経験が起きた事にある。
その男の場合は医学的な意味で奇跡的に復活しただけで物理法則には反していない。
なので後々詳しく調べれば雷に打たれて一時的に死んでいたと判明する。
復活した理由も高度な医学があれば解き明かせるだろう。
しかしスワンプマンの場合は、その時の状況が科学的に説明できない。
突然気づいたらワープしていたと言うしかない。(ちなみにオリジナルが死ぬ直前に時計を見ており、スワンプマンが誕生した直後にも時計を見たとすれば、記憶喪失の可能性を消せる)
なので先ほど説明した"設計図"や"過程"を考慮すると、復活した男の方がオリジナルとしての主張は"有利"かもしれない。
スワンプマンの場合"意図した流れ"もなしに"突然"発生している。
なのである時点から時間差で時間軸を共有した場合、正しい流れを持っている方がオリジナルの続きだと言えるかもしれない。
物理法則に沿った経験をしている方が有利と考えられるわけである。
とは言ったが、結局これは最終的には個人の感性に委ねられるだろう。
ちなみに興味深いことに量子テレポーテションではスワンプマンのような事は原理上起きないようになっている。
転送させたい物体の"情報"を得る時に、必ずオリジナルが破壊されるようになっているからである。
さらにその得た情報を別の場所で"復元"させるには通常の通信を使って"テレポート"させたい場所へ情報を送らなくてはならない。
なのでこれはテレポートと言っても瞬間移動とは違う。(たまにそのように思わせる説明を見かけることがある)
ちなみに私の考えでは量子テレポーテーションで復元された人物は、その人である。
移動ではなく複製に近いのでその人じゃないと考えられそうだが、しかし偶然ではない意図した流れ(理解)がそこに存在しているのでスワンプマンとは状況が違う。
しかもこれは時間軸の共有は原理的に不可能になっているのでその点も問題ない。
ただ複製される前にその状態が破壊されるのでオリジナルはその時死んだとも言えそうだが、しかし"そのオリジナル"は"その時にしかない"という4次元的な考えを適応すれば復元されるまでの時間が仮に1年掛かろうとそれは問題ないと個人的には考える。(物質を超えた情報としての一種の冷凍保存と捉えれる)
ただし技術的な意味で正しく復元されるのかという心配は当然残るし、1年も空白期間が空くのも何らかの目的がない限り誰もそれは望まないだろう。
というわけでこれで本当に一件落着したように思えるが、しかし、この問題はシミュレーション仮説を考慮すると一気に混迷を極める。
記憶や経験という言葉を何度か使ったが、それは意識経験を直接意味するとは限らない。
この続きはデジタル物理学の応用編で取り上げる予定です。(現在のところ未定)