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「エヴェレットの多世界解釈」の利点と問題点

エヴェレットの多世界解釈は単なるSFチックな仮説に見えるが実はかなり奥が深くコペンハーゲン解釈では補いきれない部分が補われていたりする。

(日本のしょぼいWikipediaだとほんの僅かしか説明はないが英語だとかなりのボリュームがある)

ちなみに私はこの説は昔は(何か面白いと思って)深く考えず支持していたのだがある時から哲学的な側面から見ておかしいと思い始めたので今は支持していない。

ただその理由を説明する前にまずはこの説に存在するちょっとした疑問に触れておこう。



■波動関数は粒子の「分裂」を意味していない

二重スリット実験の解説の時にも触れたが観測されていない時の粒子の振る舞いは「波」(波動関数)であるとされている。

つまり単純な「増殖」を意味していないので波動関数を考慮して多世界解釈を支持するのは違和感がある。(その事を例にした説明は実際出回っている)

※ただ第四章で説明している重ね合わせを考慮すると辻褄が合うという意見もあるが、それは置いておこう。

これと繋がっている疑問はもう一つある。

■多世界同士影響し合わない

波動関数は波同士互いに影響を及ぼす特徴がある。

しかしエヴェレットの多世界解釈によると分裂した世界は互いに影響を与えないという特徴がある。

これも先ほどと同じように波動関数の特徴とは違っている。

(ただし影響を与えるのではないかという仮説も聞いたことがある)

ただ何であろうとミクロの世界の特徴をマクロの世界に当てはめて多世界解釈が正しいと単純に導くことはできない。言いたかったことはそれである。

ただしこの二つの疑問はこの解釈を否定する理由としては不十分である。

なぜなら量子力学的な多元宇宙の存在を否定できる理論も同じく存在していないから。(証拠がないというのは否定の意味にはならない)

しかし次の哲学的視点から来ている疑問、これこそがエヴェレットの多世界解釈の本当の問題点だと思う。

■何を持って「自分」とするのか

この事を説明する前にエヴェレットの多世界解釈の大きな利点を説明しよう。

もう一度二重スリット実験を例にする。

例えば粒子がスクリーンの左側で観測されたとする。

しかし通常の量子論に従うと粒子は観測前は波として振舞っていたはずなのでその波はスクリーンの左側以外にも到達していたはずである

だが観測が行われると一つの箇所でしか粒子を確認できない。

スクリーンに広がっていたはずの波はどこへ行ったのか?

そもそもなぜ他の地点では"干渉"が起きなかったのか?

その波動関数の収縮の謎を簡明に解決できるのが多世界解釈の非常に大きな強みである。

この解釈に従うと観測者の役割は実は量子力学には存在せず、観測に該当する地点(量子デコヒーレンス)に到達すると世界は決まった結果にそれぞれ分裂しているとなる。

つまり波動関数の収縮が理解不能の現象に見える理由は、そもそも「現象」として波動関数の収縮が存在していないからと説明できる。

そして先ほどなぜ他の地点では干渉が起きなかったのかと指摘したが、この理論に従うと起きている

だがこちら側から見ると別次元の出来事なので波動関数が他の地点では干渉を起こさず不気味に消滅したように見えるというわけである。

それによって量子エンタングルメントにも悩む必要がない。

量子エンタングルメントの解釈を紹介でも説明したがそれぞれの世界がその結果に合わせて宇宙全体で分裂するので気味の悪い遠隔作用(何らかの非局所性)は実際は存在していないことになる。

この二つの不気味な問題を解消できたことは利点として非常に大きい。

※今の部分が大したことないように思う人は事の重大性をおそらく完全に把握していない(この先の章を見ていけば分かるかもしれない)



こうやって利点だけ見るとエヴェレットの多世界解釈は説得力があるが、しかしこの利点こそが最大の問題点ではないか。

というのもこの解釈は、意識の問題を完全に無視している。

「波動関数の収縮」や「気味の悪い遠隔作用」には向き合ってるのだが意識に関しては無視どころか実際は無い事にされている。(考慮すると厄介な問題が発生するから)

コペンハーゲン解釈の場合はちょっとややこしい話が控えているが基本的には重要とは言われていないが特にない事にもされていない。(考慮しても何か問題が発生するわけじゃない)

ボーム解釈の場合は分裂などの概念がそもそも存在しないのでこの問題とは一切無関係。

エヴェレットの多世界解釈によるとその多世界の中にそれぞれ別の歴史を歩んでいる「自分」がいるとの事だが、

それはそもそも「自分」なのだろうか?

たとえ「別の自分」が「この自分」とほとんど同じ歴史(人生)を歩んでいたとしても、記憶(経験)が完全に一致していない限りそれは自分そっくりなだけの別人ではないのだろうか?

ちなみにあまり有名ではないがエヴェレットの多世界解釈には派生形が存在している。

それは「Many-minds interpretation」と呼ばれている。(訳すと「多精神解釈」とか「多意識解釈」という感じになると思われる)

この説は数学的にはエヴェレットの多世界解釈とほとんど全く同じだが意識の問題を無い事にせずむしろ「意識が世界を作っている」という「イデアリズム」(観念論)がベースになっている。おそらく。(実は詳しくは知らない)※違うのならこの理論の存在意義がよく分からない

ちなみにエヴェレットの多世界解釈は「マテリアリズム」(唯物論)に属し「物」が世界を作っているという普通の考えがベース。

詳細はこちらを参照:宇宙論には基本的に二つの考え方がある

話を戻して、しかし紹介はしたが結局この多意識解釈ですら多世界に存在する「自分」は本当に自分と言えるのかという哲学的問題は何も解決しない。むしろ混乱する。

更にそれと関連した非常に重要な問題がある。

「なぜこの世界なのか」をエヴェレットの多世界解釈は説明することが出来ない。(多意識解釈も同じく)

たとえば全ての世界の自分に意識があると仮定しよう。

では「この自分」が「この世界」にいる理由は何なのか?

世界が分岐するまで完全に同じはずだったのにある地点から意識が分裂し、ここに到達した理由は何か。

この理論は決定論であるにも関わらず意識を持ち出すとこのように妙な事になる。

この解釈の弱点は意識の存在といえるだろう。

ただし、「全ての世界の自分」に意識があるという前提がそもそも間違っているのなら、話は大きく変わってくる。(ただその話は次につづく)

では話をまとめよう。

■利点

・波動関数の収縮の謎が決定論として解決する

・量子エンタングルメントの作用も決定論として解決する

要するに「局所性」が守られるというのがこの説の利点。

それにランダム性に関する説明も"理論上"必要ない。

■問題点

・量子力学的な多元宇宙を説明する理論が(少なくとも今のところ)存在していない

・意識の存在を出すと利点が問題点になる(決定論と言えなくなる)

ちなみに意識に関する問題を全て完全無視したらエヴェレットの多世界解釈というのは中々良いアイディアだと思う。

そしてこの話は次の「シュレーディンガーの猫」と「意識解釈」へつづく。