「論理」とは何か
シミュレーション仮説を中心としたデジタル物理学の哲学の話のまとめとして論理や数学について取り上げよう。
宇宙の仕組みを"数学"で説明できる、つまり宇宙は情報(数学)で出来ているという考えは結構前から言われているが、しかしそれは"全て"は情報で出来ているという意味なのだろうか?(意識経験も含む)
もし数学的宇宙仮説(究極集合)が真実であるのならその答えは正しいだろう。
しかしこのサイトでは究極集合は"物理的"には存在しないと結論を出している。(更に意識経験としても存在しない)
つまりそれが正しいなら宇宙は単純に"数学"で作られていないということになる。
たとえば円周率が3,14159265...と続いていくのは宇宙の真理に思える。実際そうかもしれない。
しかしシミュレーション仮説が正しい場合、シミュレーション内の人物がそれが正しいと思い込んでいるだけという可能性を消すことができない。
たとえばこの世界を作っているシミュレーション実行側の世界では実は円周率は3.14159264...なのだが、何か理由があってシミュレーション内の人物に"その宇宙で正しいと考えられているもの"とは違う考えが正しいと思い込ませているだけかもしれない。
極端な話1+1=3が正しいと思われている宇宙(人生)だってあり得るだろう。
ただそれを言い出したら、本当に何でもありじゃないかと思えてくる。
数学すらその宇宙(人生)の"設定"として存在するだけかもしれないのであれば、この世に確かなものは何一つないと考えれてしまう。
だが今まで説明した理論が正しいのであれば、現在の現実の上には必ず論理が控えている。
なので数学すら設定として存在するだけだとしてもそれが混沌を意味するわけじゃない。
では、論理とは何なのか?
それはおそらく、"それ"を正しいと思う心じゃないだろうか。
"それ"というのは例えば1+1=2というようなもの。
1+1=4というのを見たらもやっとした気持ちになるだろうが、しかし1+1=2の時はそうはならない。
つまりそのような"正しいと思う心"の様々なパターンが論理なのではないだろうか。
そしてそのような心こそが情報(数学)の真の正体であり、それが論理的に複雑に組み合わさる事によって現実は成り立っているのだろう。
つまり"正しいと思う心"(論理)をベースとした"純粋なクオリア"で現実は構成されていると考えることができる。
※ここでいう純粋なクオリアは色のような論理とは関係ないものであるので数学と同じ心でもその二つのクオリアは現実の本質として性質が分かれていることになる
分かってる。
今までの話の中で一番"宗教っぽい感じ"なのは分かっているが、しかしこれまでの話が正しいと仮定するとそれが結論になる。
たとえばこの現実では1+1=3というのは間違っている(非論理的)と感じる。実際そうだろう。
しかしある現実では1+1=3は正しい(論理的)と感じられる。
矛盾しているように思えるが、しかしその1+1=3の現実はその上に存在するシミュレーション実行側の科学力(論理)によって作られている。(その世界ではおそらく1+1=2)
なので1+1=3が全く辻褄の合わないものだとしても、辻褄の合わないものを正しいと感じさせる論理によってその考えは成り立っているので1+1=3が正しいと感じられる設定も論理の中に含まれているというわけである。
例えるなら幻覚剤によってトリップしても、薬と脳の作用の仕組みによって存在しないものがそこにあるように感じ取っているだけなのでそのような経験をしても宇宙の物理法則が崩れたことにはならないのと同じような意味である。
ただし、そんな非論理的な設定を作って一体何の得があるのかというのも無視できない。
単純に考えるとそのような1+1=3が正しいと思われている設定の宇宙(人生)をわざわざ作り、それを経験する目的が何も見えない。
労力の割に得るものがないように思える。
よほど何か"こちら側"には分からない重要な目的がない限りシミュレーション終了後に無駄に混乱するだけである。
なので前々回説明したフェルミのふるいを信じるのであれば、この事はあまり気にする必要はないだろう。
ただこの話の本当のポイントは、シミュレーション内の現実では何がその"非論理的な設定"であるのか判断不可能である点。
この現実では正しいと言われている事が実は上の層では違うかもしれない可能性を永遠に否定できない以上、つまり宇宙の真理を考える事は無意味なのだろうか?
だがたとえそれが設定であろうと、それがどのような仕組み(論理)で成り立っているのか"考える過程"が大事なのかもしれない。
実際シミュレーション実行側の世界を考慮しすぎて「どうせ全てシミュレーションだから」と考えて現在を軽く考えるのは得策ではない。
なぜなら次の現実でも全く同じ事が言えてしまうので「どうせ全てシミュレーションだから」の無限連鎖が発生してしまいかねないからである。
なので何かを"論理的"だと本当に思うのであれば、普通に受け入れていいと思われる。
それについて"真理"かどうかを深く考える必要はないだろう。
これもまた"宗教っぽい感じ"なのは分かっているが、しかし多分これがこの宇宙論にとっての理想的な考えではないだろうか。
(今の考えはシミュレーション仮説の倫理的問題にも応用できる)
というわけでこれで一通りこの理論の要点は押さえたが、シミュレーション仮説はかなり深いのでこれと関連した哲学はまだまだ色々と考えることができる。
それは応用編へとつづくが、哲学の項目を見ていない人は先にそちらから見た方がいいかもしれない。
■哲学(第五章)
■応用編