哲学的ゾンビについて
哲学的ゾンビとは、簡単にいうと意識経験(クオリア)を持たない人間(生物)のことである。
簡単にイメージできそうだが、この概念が意味するものはかなり深い。(シミュレーション仮説まで考慮すると途轍もなく深い)
まず生物を構成している"元"を考えると原子のようなミクロの「もの」に行き着く。
だがそれは、椅子やテーブルなどと全く同じ材料である。
一体それがなぜ"このような形"で組み合わさると意識を持つのか?
"機械"は意識を持つことが可能なのか?(中国語の部屋)という問題があるがそれを超えた枠としてこの問題はある。
というのもこれは機械だけじゃなく本当に"他の人"、更には"自分"すら意識を持っているのかという"普通の人間"の定義すら考えさせるものだからである。
ちなみに当然私は意識を持っている自信がある。皆もきっとそうだろう。(しかし、たまに本当に自らの存在を疑う人を見かける)
だが、どうやったらそれを確かめる事が出来るのか?
科学でそれを確かめることが出来ないのであれば「皆が意識を持っている」という一般的な考えは単なる推測、つまり信仰でしかない。
※科学や信仰などの定義についてはこちらを参照:科学、哲学、宗教の違いとは
ただし現実というのがこのように存在している以上、最低でも意識は一つは存在するのは確かである。
宇宙に何か100%確実なものがあるのならそれは意識の存在だといえるだろう。(ただしそれは自分や皆が意識を持っているという意味にはならない)
ちなみにこの問題と繋がっているかなり奇妙なパラドックスが存在している。
それについては次のボルツマン脳パラドックスへつづく。