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シミュレーション仮説を考慮した
哲学的ゾンビについて

■シミュレーション仮説を考慮していないバージョン:哲学的ゾンビについて

ではデジタル物理学(基本編)で説明した内容を考慮して話を進めて行こう。



まずシミュレーション仮説が正しいと仮定した場合、普通の人間の定義哲学的ゾンビの定義もどちらも考え直す必要が出てくる。

なぜなら"自分"以外の存在は通常の哲学的ゾンビどころか行動的ゾンビではないかという可能性が浮上するからである。

行動的ゾンビは哲学的ゾンビの種類の一つで"見た目"は普通の人間なのだが、実は中身は普通と違い、たとえば上の図のようなハリボテのような存在かもしれないというもの。

アニメやゲームのキャラを想像したら分かりやすいだろう。(夢の中で出てくる人物でもいい)

水槽の脳シミュレーション仮説だと現実は意識の主の視点でのみしか存在しないので通常の哲学的ゾンビの存在を考慮する前にこっちから考える必要がある。

さらに、現在の意識の主の肉体すら本当に完璧な形でコンピュータ上でシミュレーションされているのかすら分からない。

意識経験は上の層の情報に制御されているので現在の意識の主の肉体(自分の脳)の存在すら疑う必要が出てくるわけである。

つまり普通の人間の定義は現在のところこの図のように脳に依存しているものだと一般的には思われているが、シミュレーション宇宙の存在が証明された世界(水槽の脳シミュレーションが実際に製作され実行された世界)ではそのような単純な定義では考えることができない。

なぜなら"その世界"ではその世界の真実(設定)は完全に解き明かすことは出来ないからである。

じゃあどのように定義すればいいのかとなるが、ちょっとやってみよう。

まず行動的ゾンビの定義だが、それは意識経験として体験不可能な仕組みで構成されているという感じだと思われる。

先ほど言ったように(現在のレベルの)ゲームのキャラなどが該当する。

完璧な形で生物として再現されていないので入り込んでその経験を体験するのは単純に不可能。

よってそのような存在は哲学的ゾンビではなく行動的ゾンビだと定めるべきだろう。

(ただし本当は"究極集合もどき"の概念を考慮するとそう単純に定義する事はできないのだが、それについては後ほど)

しかし問題は誰が現在の意識の主か世界が判断できないのと同じように、誰が行動的ゾンビで誰か哲学的ゾンビなのか世界が判断できない点である。

これらが明らかになるのは基本的には現在の意識の主の死後(シミュレーション終了後)という事になる。

その時下の層がどのようになっていたか判明する(思い出す)わけである。

ちなみに例外として誰が意識の主で誰が行動的ゾンビか世界が判断できる可能性はある。そういう設定であれば。

しかしそれはイデアの宇宙ではないので、今回は無視しておく。

そして哲学的ゾンビだが、これが重要になるのはコンピュータ上で"完璧な宇宙"が再現可能になった時である。

それを実行可能な宇宙(現実)すら究極的に見ると水槽の脳シミュレーションで成り立っているのだが、しかし論理のレベル水槽の脳シミュレーションしか実行できない現実と比べると格段に高まっているので意味が変わる。

ちなみにこの現実は見ての通り水槽の脳シミュレーションすら実行できないレベルであるが、しかしそのような事を哲学的(論理的)に考える事が出来るレベルには達している。

10年前だとブライアン・ウィットウォースが挙げた仮説がおそらくシミュレーション仮説の理論の限界レベルだったので、ここ数年で議論のレベルはかなり進歩している。



では話を戻してここで問題。

コンピュータ上で完璧な形で再現された宇宙に存在する"生物"は意識を持っているのだろうか?

コンピュータで再現されているのでゲームのキャラと同じとも考えられるが、しかし外側の存在が入り込んでその存在の経験を体験できるポテンシャルは持っているので、先ほどの行動的ゾンビとは意味が異なる。

"機械"は意識を持つことが可能なのか?(中国語の部屋)という問題と類似し更に倫理とも関係したかなり難しい問題だが、個人的には基本的には意識を持った前提で考慮すべきと考える。

実際意識の主が将来体験する可能性があるし、更に本当に意識がこの世に一つだけと完璧に証明する術はないからである。

(ただこの問題はかなり複雑だからここでは置いておく)

何であろうと、たとえこの理論がソリプシズムに該当しようと自分以外の存在は全員哲学的ゾンビと言えないばかりか簡単に誰が哲学的ゾンビで誰が行動的ゾンビなのかすら判断することはできない。

しかも究極集合もどきの概念を考慮すると、たとえばフィクションのキャラのような行動的ゾンビと思われる存在すら本当にそうなのか言い切ることは出来ない。

なぜならフィクションのキャラの人生を設計しそれを"未来"で経験する可能性があるからである。(なので"この人生"が何かの作品のフィクションのキャラに該当する可能性すら0%じゃない)

更にそのフィクションの世界が論理的なイデアとして存在している可能性も0%じゃない。

つまりこっちから見たら確かにハリボテなのだが、そのハリボテの世界に"該当する"実際の世界があるかもしれないというわけである。

その概念はフィクショナルリアリズム(虚構実在論)といって夢で見た世界想像可能な世界全てどこかのパラレルワールド上に実際に存在しているというものである。

しかし一般的なフィクショナルリアリズムの概念は究極集合と同じで物理的に存在している扱いなので、つまりこの宇宙論に反しているので私は支持していない。(一般常識に反するから支持していないわけじゃない)

だが究極集合もどきにフィクションのキャラに該当する人生が含まれている可能性は0%とはいえないので、そういう意味ではフィクショナルリアリズムの可能性は完全に切り捨てることは出来ない。

※水槽の脳シミュレーションは物理法則を完全に無視できる特徴があるので、人生経験という意味では無限のポテンシャルを持っている

(ただしデジタル物理学の第四章で取り上げた問題を考慮すると、たとえばハリーポッターの人生がそこに含まれるかはにわかには怪しいと個人的には考える)

そして最後に普通の人間の定義だが、途中でも言ったようにこの理論だと意識は脳に縛られていないので一般的な図は間違っていることになる。

更にこれはソリプシズムなので"普通"の人間が何なのかという部分の定義から考え直す必要がある。

というわけで考え直すと、意識の主はこうなる。

一般的な普通の人間の図とはもはや大きく異なっているが、水槽の脳シミュレーションを考慮すると意識を持った存在の図はこのようになる。

そして哲学的ゾンビの図こそが、普通の人間の図といえるかもしれない?

では全てをまとめるとこうなる。

かなり複雑な感じになったが、これが水槽の脳シミュレーション仮説を考慮した場合の哲学的ゾンビ問題である。

ちなみに"普通の人間"はそもそも存在するのかという疑問を考えるとこの話はまだ掘り下げることができる。

ただしここでは一旦ここまでにしておく。


シミュレーション仮説を考慮した中国語の部屋