ボルツマン脳が抱える本当の問題
■前回
前回ボルツマン脳の概念を紹介したが、ここから注目するのはこの概念の取り扱われ方である。
これは英語圏だとBoltzmann Brainsと複数形でよく紹介されている。
図だとこのような感じである。
そしてこの脳による現実の存在を仮定する時、「我々は本当はボルツマン脳かもしれない」という言い方もよく聞く。
…何かおかしい点に気付いただろうか?
それはなぜこのパラドックスを複数の脳が存在する前提で語るのかという部分。
"この現実"を指しているのであれば脳の数は一つで充分である。
複数の脳が同時に存在し、それが脳が感じ取っている世界の中にいる一人一人に対応している"必要性"は全くない。
そもそもこのパラドックスのポイントは"世界"(宇宙)というのが一般的な意味では存在していないという部分である。
なので複数の脳が共通の世界を共有しているという前提はおかしいわけである。
このパラドックスのことを前回現代版の世界五分前仮説だと言ったが、それよりも本当はこれはソリプシズム(独我論)の可能性を指している意味が強い。
だがボルツマン脳について議論している人々の中でその事を指摘している人は滅多にいない。
(ただ稀に「これが正しいなら"我々"というのは存在しない」という正しい指摘を見かける)
一つの脳しか生まれない条件があるわけじゃないが、しかし同時に存在しそれが"共通の世界"の別々の人物の視点から現実を見ているという仮定はボルツマン脳パラドックスの持つ本質ではない。
むしろそれはシミュレーション仮説に限りなく近い概念である。
だがそれすら、現実が成り立つ原因として複数の脳を必要としない。
(一つの脳だけで成立する)
これが意味するのはつまり、人々は本当にソリプシズム的なアイディアを避ける傾向にあるということ。
確かにその気持ちは理解できるが、しかし完全に無視するのであればそれはもう哲学ではないのではないか?
なのでこのパラドックスは「一体何がパラドックスなのか」という意見も少数ながらある。
(さらに「むしろ自分にとっては完璧に辻褄が合う」という意見も稀にだがある)
現実というのがビッグバンから始まり今に至るという前提で存在すると仮定すると確かにボルツマン脳の概念は"それ"に矛盾するのでパラドックスといえるかもしれない。
しかし、その前提はあくまで"常識"でしかなく確実なものではないのでボルツマン脳による現実の存在の可能性は正確にはパラドックスと言うことはできない。
というわけでボルツマン脳パラドックスは現実が何なのかを考えさせる問題というより、それを取り扱う人の発想に疑問を投げかける問題といえるかもしれない。(見る人から見れば)
つまりこれは宇宙論(認識論)的な哲学というより、哲学の部屋のVol. 2で取り上げている(取り上げる予定の)哲学に近い意味だといえる。
ちなみに前回少し触れたスワンプマンについては次の第六章で取り上げているのでそちらをご覧ください。
■第六章