「シュレーディンガーの猫」と「意識解釈」
■前回
前回触れなかったことが一つある。
それは一般的にはコペンハーゲン解釈から生じたとされるシュレーディンガーの猫のパラドックス。
有名な話なので具体的に説明はしないが簡単に言うと生きてる猫と死んでる猫が同時に存在しており、蓋を開けて"観測"するとその時どちらか一つの猫の状態に確定するという奇妙な概念である。
これは元々はミクロの世界の奇妙さをマクロの世界に置き換えただけの例え話だったらしいのだが、いつの間にか一人歩きしてコペンハーゲン解釈の一つとして捉えられるようになったりしてしまっている。
中途半端な言い方をしたがそれはコペンハーゲン解釈の解釈がコペンハーゲン解釈派の中で割れているからである。
テレビやYouTubeの量子力学の説明の中で実際の科学者がシュレーディンガーの猫を例えとしてではなく本当の概念として説明しているのを見かけた事がある。※ミチオ・カクのこと
しかし別のコペンハーゲン解釈派によると「それは例え話であって実際に存在しているわけではない」と断言する。
更に他のコペンハーゲン解釈派は「よく分からない」と言う。
ちなみにこのように意見が分かれている理由は二重スリット実験の解説の中でも少し触れたようにこの解釈は「解釈」と名が付いているが多世界解釈のような種類の解釈と違い具体的な説明がほとんど何も存在していないからである。
つまり肝心な部分の説明が空白なのでコペンハーゲン解釈を支持していてもその空白部分が何を意味しているかは結局個人個人が考えることになる。
その結果シュレーディンガーの猫がコペンハーゲン解釈の中に含まれていると考える人がいたりいなかったりするわけである。(ただしシュレーディンガーの猫と違い観測しても一つに定まらない)
しかしシュレーディンガーの猫否定派には量子デコヒーレンスがある。
つまりたとえ観測問題が完全に解明されていなくてもそれを考慮すると否定派の言い分が100%正しいように思える。
だが量子デコヒーレンスを無視せずにシュレーディンガーの猫が生きる方法が実は存在している。
コペンハーゲン解釈によると波動関数の収縮は実際に起きているとされている。
しかし多世界解釈では波動関数の収縮自体が存在しないので量子デコヒーレンスの効果はコペンハーゲン解釈と意味が違う。
それによって多世界解釈では分裂が本当に起きている。
つまりシュレーディンガーの猫はそもそもコペンハーゲン解釈ではなく多世界解釈に属する概念じゃないのだろうか?(もしくは多世界解釈に近い概念)
前回エヴェレットの多世界解釈の派生形である「多意識解釈」(Many-minds interpretation)を紹介したが、あれとも種類が違う「意識解釈」を知っているのでそれを今から紹介しよう。
これにはシュレーディンガーの猫が例えとしてではなく実際に登場する。
(ちなみにこの説明の中で非常に不気味な概念が登場しますがご了承ください)
※エヴェレットの多世界解釈と多意識解釈を分けて例に出すのは面倒なので今後は二つとも「多世界解釈」として統合
この図は多世界解釈の時と似ているが根本的に違う部分がある。
まず多世界解釈では観測者の役割はそもそも存在しないが、この場合も存在していない。
しかし「意識を持った観測者」の概念が必要不可欠になる。
この意識解釈の場合は多世界解釈同様波動関数の収縮は起きてるようで起きていない。
なぜなら世界が分裂しているから。
この場合の量子デコヒーレンスの役割は多世界解釈と同じく多世界の分裂(シュレーディンガーの猫の誕生)となるキッカケという意味になる。
ただ正確には波動関数の収縮が起こっていないわけじゃない。
量子デコヒーレンスが波動関数の収縮の究極的な原因じゃないという言い方が正しい。(究極的な原因は意識)
これは確か"Von Neumann Chain"(フォン・ノイマン・チェイン)と呼ばれる概念である。
しかしこの多世界は「多世界解釈の多世界」とそっくりだが根本的に種類が違う。
というのもこれは「意識を持った観測者」の中にだけ存在する「仮想的な世界」だからである。
多世界解釈では多世界は実際にそれぞれの時間軸で存在(経験)するものであるがこっちの場合仮想的にしか存在していない。
そしてその仮想的な現実は意識を持った観測者が観測、もっと具体的に言うと「クオリアで感じ取る」まで仮想的に存在し続ける。
(クオリア=簡単に言うと意識経験のこと)
そして観測した瞬間、一つを残し仮想的な多世界は消滅する。
そして意識を持った観測者が観測した一つのその世界が意識を持った観測者の中で「現実」(経験)となる。
※ただし仮想的な多世界が本当に完全に消滅するとは限らない(後述)
この意識解釈には多世界解釈が持っていた弱点をカバーする力がある。
それはなぜこの時間軸なのかという問題が解決する点である。
というのも観測によって「仮想的な多世界」が消滅するのでランダム性(確率)の概念が存在している。
それによって多世界解釈では「なぜこの時間軸なのか」は決定論であるにも関わらず説明不可能だったがこっちの場合純粋なランダムか何かで決まったという事で説明することができる。
ただし純粋なランダムやそれ以外の要素が何なのかという哲学的問題は残る。
しかし量子力学として持っていた哲学的問題は解決している。
という具合にシュレーディンガーの猫が実際に存在する意識解釈を説明したが、しかしこの話には一つ大きな問題がある。
意識を持った観測者が見なければ箱の中身の猫は「仮想的な多世界に存在し続ける」との事だが、では別の意識を持った観測者が先に箱の中身を覗くとどうなるのか?
同じ宇宙にいるはずの二人だが、現実に差異が生じている?(そもそも「箱の中の猫から見た宇宙の状態」はどうなっている??)
単純に観測者Aが猫を見た時に現実が決まったのではないかと思うだろうが確率論である以上そうはいかない。
「別の意識」によってある意識にとっては決定論にもなったりするというのであれば「意識を持った観測者」の概念はそもそも間違ってると考えるべきではないか。
つまり理論として中途半端すぎるわけである。(猫の立場も加えたら話は収集が付かない)
今の話は多意識解釈にも当てはまる問題点なのだが、しかしこれには不気味な解決策が存在している。
解決策は基本的に二つしかない。
・意識を持った観測者は一つの宇宙(現実)に一人のみ
・意識を持った観測者はそもそも一人しか存在しない
簡単に言うなら解決策はどちらもソリプシズム(独我論)である。(二つと言ったが実際は一つ)
ここで簡単に説明するとソリプシズムとは要するに世界で自分しか意識を持っていないである。
前者の方はソリプシズムとしてはやや中途半端だが、しかし「自分以外の意識」が例えば他の次元にないとは言えないという事で可能性として残っている。
ちなみにその別次元の概念は量子力学的な多世界とは種類が違うタイプである。(多元宇宙論の方と関係していると考えられなくはない)
ただ仮にそれが成立しても基本的に自分以外の存在はその宇宙(現実)では全員「哲学的ゾンビ」である。
(哲学的ゾンビとは泣いたり笑ったりするが実は意識経験を持っていない人間[生物]のこと)
「別の宇宙」(意識)と「自分の宇宙」(意識)がシンクロする可能性がある(経験する視点が違うだけでその舞台は同じになる事がある)という高次元の意識理論(?)でもあれば話は別だが、
しかしそれが存在しても基本は「自分以外は哲学的ゾンビ」(ソリプシズム)でなければこの問題は解決しないように思える。
そして後者の方は普通のソリプシズムである。こっちの方がシンプルで辻褄が通りやすい。
量子力学はソリプシズムを意味しているという考えは実際昔から存在している。これは新しい考えというわけじゃない。(ただし人気はない)
そしてソリプシズム的な概念を一切支持しない考えこそが多世界解釈だと言える。
この意識解釈と多世界解釈の大きな違いはおそらくそれだけ。
数学的には多分同一かもしれないがその理論の持つ「哲学の違い」がエヴェレットの多世界解釈(マテリアリズム)、多意識解釈(イデアリズム)、意識解釈(ソリプシズム)の違いを生んでいる。
※ただし前回も少し言ったが多意識解釈が本当にイデアリズムを意味したものなのかは実はよく分からない
なので先ほど仮想的な多世界が完全に消滅するとは限らないと言った理由は、量子力学的な多元宇宙を宇宙の内側から観測する方法が存在すればゾンビワールドとしての多世界を観測できる可能性があるからである。
(ゾンビワールド=哲学的ゾンビのみで構成された世界)
つまり意識解釈を元に考えると完璧に辻褄が合うエヴェレットの多世界解釈とは、意識を持った観測者がこの世に一人も存在しないのが条件。
それなら複数の世界があろうと誰の視点も存在しないので決定論として理論的に完璧になる。
実際エヴェレットの多世界解釈はSFチックに見えるが実は純粋な数学的な解釈である。
(ちなみにこの解釈の支持者であるマックス・テグマークは「数学的宇宙仮説」という究極の多世界解釈ともいえる理論を提唱している)
例えば(シュレーディンガーの猫が含まれない)コペンハーゲン解釈ですら波動関数は「本物の存在」じゃないという奇妙な扱いになっている。
Wikipedia(英語):Interpretations of quantum mechanics
(コペンハーゲン解釈によるとこの波は「確率」を意味した抽象的なもので物理的なものではない)
というのももし波を本物扱いしてしまったら波動関数の収縮の際に存在するように見える非局所性(光速を超えて収束してるように感じられる部分)によって相対性理論との矛盾が起きかねない。
だが「物理的な意味はない」と(具体的な説明なしで)定めれば、色んな意味で腑に落ちないが、しかし「計算上」は単に粒子がある地点からある地点まで行ったと難しい概念抜きで説明することは出来る。
ちなみにQビズムと呼ばれる近年登場したコペンハーゲン解釈に近い解釈が存在するのだが、それによると波動関数は観測者の主観的な心の状態を反映しているだけというものである。
正直それで本当に説明になっているのかよく分からないのだが、しかし波動関数の正体に関して一応説明を与えている。
本物じゃない波動関数を数学的な感覚で取り扱いやすくなるという意味では科学者向きの解釈と言えるかもしれない。
参照:Qビズム 量子力学の新解釈(外部リンク)
ただ"心の状態"や"観測者"と言っても意識を持った観測者(生物)という意味ではないようなのでややこしい。
それに量子力学的な多世界の存在についても不明(不可知)という扱いなので個人的にはこれは中途半端な印象を受ける。
先ほども言ったがこれは量子力学を数学的にイメージしやすくした科学者向けの解釈だろう。
話を戻して、多世界解釈だとこの波は「本物」である。
※場の量子論の"場"で説明できる?
波動関数の収縮の際に起きていそうな問題(非局所性)はそもそも波動関数の収縮自体が存在しないという事でクリアしている。
つまり全てが本物なので逆にそれを説明するのに数学以外の概念はこの世に必要ない。これがエヴェレットの多世界解釈の根幹かもしれない。
だが見ての通り「意識」というのは確かに最低でも1つはこの世に存在しているので「誰の視点も存在しない」というエヴェレットの多世界解釈にとっての完璧な条件は満たされていない。
ちなみに2014年にマックス・テグマークは「意識は単に数学的パターンに過ぎない」というような事をあえて言っているので、つまり多世界解釈の問題点に内心気付いているのだろう。
しかしテグマークはどういうわけか「量子不死」の概念を支持しているので、意識に関する扱いはハッキリ決まっていないようにも思える。
この概念は意識が単に物に付属しているという考えでは機能しないはずなのだが。
(量子不死はむしろ意識解釈の方にこそ綺麗にフィットする)
■理論が完璧に成立する条件
・エヴェレットの多世界解釈:この世に意識は一切存在しない(神の視点でのみ現実は存在する)
・多意識解釈:理想の条件は存在しない ※なのでこの理論の意図するものが何であろうとあまり興味がない
・意識解釈:この世に意識は1つ(ただし神の視点ではない)
ちなみにどのケースも多意識解釈のように皆が意識を持ってると仮定したら混乱が起きる。
エヴェレットの多世界解釈は決定論にも拘らず意識を持った存在の立場からすれば確率論になる。
意識解釈では確率論にも拘らず他の意識を持った存在を考慮したら状況によって決定論になる。
あくまで個人的な結論だがこれが意味するのはつまり、多世界解釈は宇宙の真理としては間違ってるのだろう。
面白いアイディアなのは間違いないが「神の視点」(宇宙の外)から見た形で現実が存在しないと哲学的に辻褄が合わないように思える。
しかも神の視点以外存在しないというかなり厳しい条件まである。(あとはみんな哲学的ゾンビ)
そういう意味ではその考えはむしろソリプシズムに近いといえる。
意識解釈も一人の意識を持った観測者以外存在しないという条件があるが、これは神の視点ではないのでソリプシズムを受け入れる事さえ出来れば不思議なことに誰もがこの説を信じようと思えば信じる事が出来る。
突拍子もない印象なだけで量子力学の数式に反しているわけでもなく、意識を一つに絞ることによって多世界系の解釈の持つ哲学的な弱点を消しつつなおかつ波動関数を本物扱いしても問題ないという利点がある。
(ただ究極的に考えると波動関数に限らず全ては意識の状態であるので本物じゃないとも言える)
そしてQビズムであった"心の状態"などの確率に関する説明もこれだと文字通りの意味で使うことができる。
さらに波動関数の収縮の問題が哲学的問題として統合されるのでコペンハーゲン解釈のように宇宙(現実)が一つの世界で収まるにも拘わらず原理不明という事で説明を放棄する必要がない。
それだけじゃなく第四章の最後で説明する観測問題に潜むコペンハーゲン解釈の持つ最大の弱点が意識解釈だと仮想的な多世界の存在によってカバーされる。
これがこの理論最大の利点の一つ。
つまり簡単にいえば様々な解釈に存在する中途半端さが意識解釈にはないわけである。
全てを意識の問題に統合できるから。
一般的にとても受け入れ難いだけでこの解釈はかなり万能である。
とはいえこうやって紹介したが私はこの意識解釈は支持していない。
というのも量子力学としてソリプシズムを支持すると問題が起きる。
その詳しい理由はデジタル物理学の項目で説明しているがここで簡単に説明するとソリプシズムの基本原理は「自分の視点以外は存在しない」であるにも拘わらず「感知不可能な範囲」(観測前の仮想的な多世界現実)にまで影響が及ぶ量子力学で意識が動いているというのは妙に思える。
つまりたとえ可能性の世界であろうと意識の外に何か(数学的世界?)が広がっているという事になるのでそれは少なくとも古典的なソリプシズムではない。
要するにこの解釈を宇宙の真理として定めるのは哲学的に不完全というわけである。
というわけで量子力学の多世界系の解釈は哲学的観点から考えて(このサイトでは)全て否定されたわけであるが、しかしそれは量子力学の解釈としてであって多世界や意識の概念が宇宙の仕組みと結びつかないとは思っていない。
実際この意識解釈の理論はデジタル物理学の解釈として応用できる。
では一通り量子力学の代表的な解釈の要点を押さえたので次は難解な遅延選択の量子消しゴム実験の話に移る。
次の第四章へつづく。
■第四章