宇宙の謎を哲学的に深く考察しているサイト

シミュレーション仮説に潜む倫理的問題?


■第二章

シミュレーション仮説が意味する現実の正体とは

無限後退問題の解決方法

■第三章

「水槽の脳シミュレーション」に関する補足

量子力学との関係

第四章からはこの仮説に付きまとう倫理的問題などについて触れておきたい。

Wikipediaシミュレーション仮説の項目にはこのような事が載っている。

シミュレーテッドリアリティの考え方を広範囲に受け入れることは、危険な状況を生み出す可能性がある。

誰もが現実は幻想であると信じていたら、かけがえのない生命という抑制から解放され、犯罪や残虐行為に走ることに躊躇しない者も多く出現するだろう。

さらに、シミュレーション内の他の人々が単なる「ボット」であるという考えに取り付かれれば、道徳観念は全く異なったものとなる。

それについて個人的な見解を述べて行く。

まず生命がかけがえのないものだから、だから残虐行為を行わないという前提にそもそも問題があるように思える。

どこでその情報を手に入れたという事もだが、そのような理屈はシミュレーション仮説の真偽とは一切関係がない。

たとえば「天国と地獄の概念があるから人は悪の道に進まない」と考える人は、そのような宇宙観を何が何でも絶対に否定してはならないと思うだろう。

(否定したら「犯罪や残虐行為に走ることに躊躇しない者も多く出現するだろう」と考えるから)

それを根拠にして道徳観を決めるなら、「科学を信じてはいけない」とか「"その考え"を絶対に否定してはならない」とかなる。

つまりこのような事はシミュレーション仮説に限った話ではないのでシミュレーション仮説特有の問題と考えるのは間違っている。

要するにこれはある概念が与えるその人の持つ本質への影響とかそのような類の話である。

では社会レベルでの影響はどうなのか?

おそらく大した影響はないと考える。

その理由を今から説明しよう。

シミュレーション仮説はどのようなタイプであろうと"宇宙の真理"として証明することは絶対にできないようになっている。

なぜならたとえ「この宇宙」がシミュレーションだったと判明しても、その次も同じかどうかは"その時"が来ない限り分からないからである。

つまりシミュレーションによる現実の構成の証明は可能でも永遠の部分はどれだけの科学力を持っても永遠に証明はできない。(本当の意味でのシミュレーション実行側の世界には永遠に辿りつけないから)

なのでこの説はどこまで行っても支持したい人が支持する哲学的な宇宙論ということになる。

無限後退の問題は科学的に解決するのは不可能なのでそれはいつまでも変わらない。

つまり社会がそれを受け入れるならそれはシミュレーション仮説を受け入れれる社会であって、受け入れない場合はシミュレーション仮説を受け入れない社会というだけでしかない。

先ほどの話と同じでこのような事はシミュレーション仮説に限った話ではないので、これが本当に意味するのは人の持つ問題である。シミュレーション仮説が持つ問題ではない。

そして「自分以外がボット(哲学的ゾンビ)である」という部分は今まで説明したようにそうじゃない可能性があるという事で話をシンプルにできる。

このシミュレーション仮説は古典的なソリプシズムを意味しないのでそのような意味では単純に考えることはできない。



ただ、シミュレーション仮説には確かに無視できない倫理的問題が一つあるように思える。

それは、シミュレーション実行側の責任

「ここがシミュレーションだったら…」という仮定を元にした議論は多くあっても「シミュレーション宇宙を創れる力を手にした時に何をどこまでシミュレートしていいのか」という議論は少ない。

むしろそれこそがシミュレーション仮説において最も重要な問題ではないか。

なぜならシミュレーション実行側の世界を考えることは第三章で取り上げたなぜこのような世界のシミュレーションが実行されているのか(なぜ自分は自分なのか)という大きな哲学的問題と直接関わるからである。

それについてこの4つの可能性を挙げた。

究極の暇つぶしの為

存在を成り立たせる為

不必要な記憶を消去する為("ふるい"を掛けている最中)

不自由さを知っていた方が"自由"の価値が分かるから

ではここで以前飛ばした3番目の候補の意味について説明しよう。

例えばこの現実が水槽の脳のシステムで作られており、その目的が生物の心理の研究だとする。

水槽の脳シミュレーションは"その人"そのものになれるので通常の心理分析とは比べ物にならないレベルで理解が進むのは間違いない。

しかし、だからこそ絶対に軽視してはならない問題がここで浮上する。

その人そのものになれるという事は、その人の"心"がそのシミュレーションを実行した存在にシミュレーション終了後も強く影響するのを意味する。

前にリック・アンド・モーティのシミュレーション仮説のワンシーンを見せたが、本当にあのような事をやればそう簡単に「そういえばシミュレーションを経験してただけだった」という感じにはおそらくならない。

たとえシミュレーション実行側の世界の時間で考えると体験時間が短くても、実行した存在からすればさっきまで感覚的には何十年間もそのシミュレーションの人物だった。

なのでシミュレーションが終わった時そのシミュレーションの人物がシミュレーションを実行していた"高次元の存在"に転生したという感覚になるのではないか。

時間が経つにつれて本体の感覚を思い出すだろうが、しかしそれでもシミュレーション経験前と経験後では本体の人格の変化があるはずである。

経験していた人物の心、つまり記憶が残り続けるから。

その概念を理解すればこの意識にまつわる超難問を考えやすくなるはずである。

例えば、"悪"の研究を水槽の脳シミュレーションで行おうとする。(極悪人の人生を再現し経験する)

しかしシミュレーション終了後はその者の心が残り続けるのだから、それは下手にやらない方がいい

だからといって"悪"の研究を怠るとその社会はどれだけ文明が発達していようと崩れるはずである。(そう考える理由は説明すると長くなるからここでは説明しない)

だがこんな言葉がある。

シーザーを理解するために、シーザーである必要はない

別に悪を理解する為に悪そのものになる必要はない。

その場合人の"様々な心理"を間接的に理解している人物になるだけで充分だろう。

しかし、なぜそもそもシミュレーションを使って理解しようとするのか?

シミュレーション宇宙を創れるほどそれだけ高度な文明ならそのような形で学ぶ必要はないように思える。

だがそれはきっと通常の教育では人間の心理の理解には限界があるからではないだろうか。

非常に優れた文明の中にいては中途半端な文明レベルの社会を構成する人間の心理を本当の意味で理解することは出来ない。

要するに、ある社会の実態を知るには実際に自らが体験しなければ分からない事がある。

見たり聞いたりするだけじゃ理解には限界がある。

そしてその理解を怠れば"非常に優れた文明"といえど崩壊してしまう。

なので、今こうやってシミュレーションが実行されている、のかもしれない。

他に考えようがないからそう考えたのだが、しかしそこそこ良い線行っている自信はある。

実際、優れた文明下にないものは優れていない文明の実態である。

これがきっとそれを学ぶにはそれなりに効率の良い方法なのだろう。

そのような事を理解している社会しかイデアの宇宙として存在できないから。

つまり必然性もシミュレーション実行理由に含まれているのかもしれない。

ただし、この現実が本当にその目的のみで存在しているかという事になれば疑問の余地がある。

あくまで今の仮説は可能性の一つにすぎないので全く違うパターンも大いにあり得る。

実際最近はその全く違うパターンを想像している。(さっきのは私にとっては旧バージョンの説)

(この問題については後日改めて取り上げるかもしれない)

では次は幸福な人生のシミュレーションについて考えてみる。

これは先ほどの"悪"の例と違うので普通にやりたい放題体験してもいいように思える。

だがそれもかなり慎重に実行は考えなければならない

なぜなら、もし最高の人生を送った後に、実は単に娯楽目的でそんな人生を作って経験していましたと気づくと"本体"に精神的ダメージが残るのではないだろうか?

その中にあったものは全て幻だったと気づくと、これは本体の中に残っているそのシミュレーションの人物の心がショックを受けるはずである。(最高の人生だっただけにそのショックは大きいだろう)

たとえばこう想像してみてほしい。

自分の好きな漫画やゲームなどの主人公の人生を体験できる装置があるとする。

そんな文字通り夢のような人生を送れる装置があればやってみたいと思う人は多いだろう。

しかし、その主人公の立場からすれば、その世界から死後この世界に転生することになる。

全部ただの"フィクション"だったと気づいたら愕然とする可能性がある。

しかも本体の人生がその主人公の人生と比べ物にならないほど悪ければ、これはシミュレーション終了後の本体に強い精神的ダメージが残りかねない。

実はこれと似たような事は現在でも起きうる。

たとえば夢中になって何かの作品に没頭しすぎると、それを見終わった後に現実に戻ってきてボーっとする感覚を経験したことがある人はおそらくいるだろう。この話は若干それに近い。

それを見ている(体験している)時はいいのだがそれが終わると逆に空っぽになった気分になる、それは良いものじゃない。

不完全なシミュレーションですらそのような事になるのだから本物のシミュレーションだとその感覚はもっと強いだろう。

なので幸福の人生というのも禁止にする必要はないと思うが下手にシミュレーションすべきではないと思える。

もしやるのなら本体との相性を慎重に考えた上で実行すべきかもしれない。

もしくはたとえ良い人生のシミュレーションだとしても本体の人生よりも比較すると悪くすれば、シミュレーション人生が終わる度に良くなって行くという事も考えられる。

本当にその連鎖が永遠に続いて行くのかは分からないが、しかし水槽の脳シミュレーションを現在よりも良い人生を送る為のみで実行するのは危険なのは間違いない。

ただそもそも、宇宙(人生)を創れる能力がある文明なのに幸福な人生を設計してその中で"本体の記憶を消去する形"で生きないとやってられないというのはどうも矛盾しているように思える。

今からその事をフェルミのパラドックスと呼ばれる概念を用いて説明してみる。

次のフェルミのパラドックスとシミュレーション仮説との関連へつづく。