時間の矢のパラドックスは解決するのか
(番外編)
■以前の考察
時間の矢の正体に関しては前回で結論が出たが、ここではそのパラドックスが今後科学的に解決するのかなどを考えてみる。
ちなみに科学者が時間の矢の扱いに困ったり、扱い方が人それぞれ違ったりしているのは、この問題は科学(数学)ではなく哲学に属するからである。少なくとも現在のところはそうである。
つまり哲学の問題を科学として考えようとするから頭を抱えることになる。
そしてそれがエントロピーと無秩序の誤解が広まっている原因だろう。
("人の感覚"でエントロピーを考えると秩序→無秩序の流れとして捉えれる)
そして科学者の中にはあまりに悩み過ぎてか、時間は存在しないと主張している者もいる。ここにあるのに。
時間の矢のパラドックスを解消する為に時間の存在自体を無いことにしようとしているのだろう。
確かに宇宙を"物"として考えると時間はないと言えるのかもしれない。詳細は分からないがそれは支持する。
しかし時間という"感覚"がここにある以上、それを正しいと思うのなら宇宙の本質は"物"じゃないと主張すべきである。
宇宙の本質は物で、なおかつ時間は存在しないという主張は、ちょっと哲学的ゾンビすぎだと思う。
つまり量子力学のエヴェレットの多世界解釈と全く同じように神の視点で物を考えているといえる。
(その種類の理論は全て"意識の存在"を持ち出すと哲学的に破綻する特徴がある)
ちなみに宇宙の本質は物で、しかし時間は存在する(時間の矢が存在する原因は物にある)という主張だとそれほど哲学的ゾンビ的ではない。
だがそれを証明するには物理的な意味で時間が一方向にしか流れない科学理論が必要のはずある。
言うなれば1+2=3は正しいが、3=2+1は間違いという感じの理論。(そのようなものがあるとはとても思えないが)
しかし量子の世界ではそのように単純に考える事はできないということで、量子力学に時間の矢の原因を求める考えもある。
参照:Time’s Arrow Traced to Quantum Source(英文)
その説が正しいかはともかく科学的な仮説では量子力学との関連が最有力のようである。
この場合宇宙の本質は量子(情報?)で、そして時間は存在するという感じだろうか。
ちなみにもし何らかの科学的な理論で本当にこのパラドックスを解決できるのであれば、前回の時間の矢の意識解釈は崩れるのだろうか?
答えは崩れないのだが、その理由は今から順を追って説明しよう。
というのもまず仮にそれが正しいとしても、時間とは何なのかという肝心な問題が残り続けるのを忘れてはならない。
つまり物、量子、情報、どれに置き換えてどのような理論で時間の矢を"解釈"しようと、時間そのものの謎は結局何も解決しない。
なぜなら何であろうと"動き"があるというのが本当の謎であるから。
宇宙が情報(数学)で出来ておりそれが勝手に変化すると考えたら妙だと思うだろう。
つまり"時間に方向性がある"という部分が本当に量子力学で説明できるとしても、何がそれを動かしているのかという部分は結局意識の存在が必要となるわけである。
断言したが、それ以外他に考えようがない。
というわけで哲学的に考えると宇宙の本質は意識で、そして時間は存在するという方が説得力がある気がするが、どのような考えを支持するかは個人の自由である。
ただ前回説明したように中国語の部屋やシミュレーション仮説との関連を考慮すると、意識の作用の方が時間の矢の問題すら辻褄が合っているように思える。
そもそも量子力学は現在のところ情報という仮説は挙がっていても正体不明であるのを忘れてはならないし、それにシミュレーション仮説の推測が正しい場合量子力学の正体は究極的には論理である。
つまり時間の矢の原因が量子力学にあっても結局それは最終的に意識の作用を意味することになる。(量子力学がワンクッション挟まる形になるだけ)
だから時間の矢の意識解釈は何らかの科学理論による時間の矢の説明が正しくとも崩れないわけである。
ちなみになぜ意識の作用として時間の矢が存在するかというと、未来が来なければ意識(現実)の存在が成り立たないからである。
要するにこの問題はなぜ何もないのではなく、何かがあるのかという絶対に解決不可能な謎と繋がっていると考えることができる。
ただそこに辿り着くと基本的にそれ以上話は進まないので、時間に関する考察はここまでである。
哲学の話は次の第四章へつづく。
■第四章