宇宙の謎を哲学的に深く考察しているサイト

現象判断のパラドックスと「設計者」


■前回

クオリアはどこから来たのか(神は存在するのか?)

シミュレーション仮説の無限後退は論理の枠内で収まっているので、解釈ができた。(円周率は無限に続くがπとしてまとめれるという具合に)

しかしこの場合は"神メアリーの存在"ですら論理の枠を超えているので、設計者の設計者の設計者の…となれば話は収拾がつかない。

それとも設計者は"本当の無"から生まれたのだろうか?

ちなみに"見せかけの無"から生まれたのであればボルツマン脳パラドックスに引っかかり、本当の意味での設計者ではない。(神の頭脳内での見せかけの設計者)

それとも生まれたのではなく"常に存在していた"のだろうか?

だがそれだと少なくとも現在は存在しないというこのサイトでの結論に反するので、個人的には支持しない。

なのでこの点を考慮すれば、意識(神の頭脳)は設計者無しで存在する方が辻褄は合う。

神の頭脳は常に存在している(ただし意識を持った存在としては一度も存在したことがない)であれば、設計者も無の概念も必要なく一応説明できる。

ただし、なぜ何もないのではなく、何かがあるのかという問題だけは結局どうやっても解決しない。

それに自由意志を持たないはずの存在(強いAI)が意識について議論を交わしている理由は永遠に謎のままである。不思議ということで終わる。

(ただ、実際はどう解釈してもこれは不思議であるのは変わらない)

ちなみに"人間"は数学のパターンでは説明できない(宇宙において特別な存在)ということで説明しようとすれば、それはおそらく論理性を捨てているのと変わらないと思われる。

参照:"機械"は意識を持つことが可能なのか?(中国語の部屋)

だったら誰もが意識も自由意志も持っているというイデアリズム的な考えを支持しようとすると確かに意識について話している事は説明できるだろうが、しかし量子力学の話の中で紹介した多意識解釈にほとんど近くなり哲学的に辻褄が合わないように思える。

参照:「エヴェレットの多世界解釈」の利点と問題点

しかもそれだと意識が物の動き(数学のパターン)に直接影響を与えていることになるので宇宙の論理性がおそらく崩れる。

自由意志が存在しないのを証明した(とされる)ベンジャミン・リベットによる実験が1980年代に行われたが、つまりこれをどうやって物理学に反さずに論破するのかが難問として残る。

参照:自由意志(Wikipedia)

ただ量子力学にその原因を求めれば、そういう意味では論理性は崩れないかもしれないが、その辺は個人の解釈である。

量子脳理論などそのような解釈は実際に色々と存在する。(このサイトでも意識解釈を紹介しているように)

ちなみにこのサイトによる自由意識の理論は"シュレーデインガーの猫もどき"として機能するので、上の意識解釈と違い量子力学を直接必要としないにもかかわらず物の動きには直接影響を及ぼさない(ベンジャミン・リベットの実験結果には影響がない)という大きな利点がある。

参照:上の層のコンピュータの故障による現実の崩壊が起きない理由

※ただし神の意思か何かとして意識の通る道筋が最初から全て固定された形で用意されていれば、自由意志なしでも自由意志の話はできる(どちらが正しいかは上の中でも言ったがおそらく永遠に謎)

というわけで、設計者は存在したという考えが存在しない方より優勢だと個人的には思う。

ゾンビワールドの問題(現象判断のパラドックス)を解決するにはこれ以外選択の余地はないように思える。

いや、他にも選択の余地はある。

ただそれについては一旦飛ばしてこのまま設計者が存在したという前提で話を進めてみる。

仮に存在したとしても、しかし永遠に存在していないのであればどうやって誕生したのかという事になる。

ただそれは究極の想像力究極の論理性のポテンシャルを持った存在が突如"無"から発生したという事で解釈できるかもしれない。(というかこれ以外だと無限後退が発生するので他に良いアイディアが浮かばない)

ちなみにその"無"は神の頭脳の外側にあるので、量子力学的な無とは全く違うことになる。

つまりこちら側では本当の無の想像は不可能だろう。(そもそも想像出来たらそれはやはり無ではない)

ただ無そのものの想像は不可能でも、無に"関すること"なら想像できる。

たとえば無という事は、物理法則や数学の法則なども含め何の制限も存在しないといえる。

なのでそこから究極の想像力と究極の論理性を持った存在が生まれるのは、ルール違反にはならない

つまり完全な無から何かが生まれてもそれを制限するルールも無であるので矛盾には当たらないないわけである。

屁理屈のような理論だとは分かっているが、しかしなぜ何もないのではなく、何かがあるのかという解決不可能な問題がある以上、深く考えていくとどこかの時点で屁理屈のような理論は必ず必要になる。



ではここからは先ほど飛ばした設計者無しで現象判断のパラドックスの問題が解決する方法を考えてみる。

いや、方法なんてものは何もない。

だが偶然か何かでそうなったとか何とでも言える。

というのも結局、設計者の存在によって現象判断のパラドックスの問題が解決しても設計者の存在自体が謎だからである。

どちらも屁理屈のような理論であるのは変わらないという点では互角。

しかもこのパラドックスは神の存在を仮定しても"こちら側"からではどれほどの知性を持っても完全な理解は不可能に思える。

初期設定という言葉を何度か使ったが、それがどのようなものか理解するどころか具体的に想像することすら無理かもしれない。

つまりこれは最終的にはどっちを支持したいかという信仰の問題になる。

現象判断のパラドックスを永遠の謎とするか、神の存在を永遠の謎とするか。

ただ現象判断のパラドックスを永遠の謎としても、それ自体が設計者の存在の否定にはなっていないのは見逃せない。

更に存在が存在する謎も同じだけ謎である。

つまり神の存在を永遠の謎とした方が宇宙の謎がそれ一つに絞り込めるという利点がある。(ただし初期設定と絡んでいる逆転クオリアの問題は残り続ける気もする)

なので設計者が存在したという考えの方が優勢だと思うわけである。

そもそもシミュレーション仮説自体がインテリジェント・デザイン説(宇宙は知性のある存在によって誕生した)に限りなく近いコンセプトであるので、それが無限に続くポテンシャルを持っているのであれば、その終点に位置する存在が逆に知性がなかったという考えはおかしいとも言える。

というわけでこのサイトで最も"宗教っぽい"話を考えてみたが、個人的には「神の存在」にはそれほどこだわりはないのでどちらでも良いと思っている。(少なくとも現在は意識を持った存在としては存在しないという考えを支持しているように)

実際、設計者が存在したとしてもなんでそういう設定にしたのか他の選択肢はなかったのかという逆転クオリアの問題は結局完全には解決しないように思える。

そもそも「論理」とは何かで言ったように"論理の形"ですら何でもありのポテンシャルを持っているとすると、数学で表現できるような単純な形の初期設定は根底には存在しないともいえる。

(なので全ての可能性が神の頭脳内で収まると考えると本当の意味での逆転クオリアは存在しえない?)

というわけでシミュレーション仮説もついに「神の領域」まで話が進んだが、しかしこれは宗教とは全く違うものである。

神とか設計者と聞くと誰もが宗教を連想するだろうが、しかしこのサイトに登場する神の概念は純粋な哲学的発想から生まれているものであって何かの本で言われている特定の神を指しているわけではありません。

もし神の概念自体が宗教そのものだと思っている人は、それは哲学と宗教の区別が付いていない。

参照:科学、哲学、宗教の違いを解説

何であろうとこの問題は様々な意味で複雑なので、今後もこの問題について追加する予定です。